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また人生が,あるときはじつに美しいものに見えても,結局つまらないものと判断されたのだったとしたら,そのつまらなさというのは,人生それ自身とはまったくべつものによって,人生を何一つふくんでいない映像によって,人生を判断し,人生を貶めているのかを理解するのであった。そしてそれに付随してやっと私が気づいたのは,ざっとこういうことだった,現実の真の印象の一つ一つのあいだを隔てている相違はーー人生の型にはまった一様な描写がとうてい真のものに似るはずがないのは,このたがいの相違によって説明されるのだがーーたぶん次のような原因によるのだ,すなわち,われわれが人生のある時期にいったきわめてわずかな言葉とか,ある時期にやったきわめて些細な身振りとかは,論理的にはすこしもそれとは関係がない諸物にとりかこまれ,その諸物の反映を受けていたが,それらのものを言葉,身振りから切り離してしまったのは理知で,そうなった以上,理知は,われわれが推理を必要とする場合がきても,それらの物をどこかにつなぐこともできなかったのだ。ところが,それらのさまざまな物のまんなかにはーーここには田舎のレストランで花咲く壁面のばら色の夕映えとか,空腹感とか,女たちへの欲望とか,ぜいたくへの快楽とかがあり,かしこには,水の女精たちの方のようにちらちらと水面に浮かび出る学説の断片をつつみこむ朝の海の青い波の渦巻きがあるというふうにーーこの植えなく単純な身振りや行為が,密閉した千の瓶のなかにとじこめられたようになって残っており,その瓶の一つ一つには,絶対に他とは異なる色やにおいや気温をふくむものが,いっぱいに詰まっているだろう,いうまでもなく,それらの瓶は,われわれが単に夢によってであれ思考によってであれ,たえず変化することをやめないで過ぎてきたその年月に配列されているのであり,また種々さまざまな高度に位置していてて,われわれにきわめて多種多様な雰囲気の感覚を与えるというわけなのだ。
p.320、マルセイ・プルースト(井上究一郎訳)、失われた時を求めて 第10篇 見出された時