「オデット、サガンが挨拶しているよ」とそんなときスワンは妻に注意するのであった。なるほどサガン大公は、芝居、サーカスの大詰めや、古い絵画に見られるように、馬の頭を正面に向けさせながら、オデットに芝居がかったおおげさな挨拶をしていた、それは、たとえ彼の母や妹がまじわることのできない女性に化肉されていようとも、いやしくも女性であれば、その前に拝する大貴人にお騎士道的な宮廷式礼法があますところなくあらわれた、いわばひどく寓意的な挨拶であった。それにまた、日傘がつくる、透明な水のような、あかるい上塗り絵の具のような、陰の奥に、彼女の顔を認めるおくればせの最後の騎士たちが、スワン夫人なのであった。いたえまなく挨拶を送るのであった、そんな彼らが大通りの白い日差しの上に速歩で馬を駆ってくるところは、まるで映画そのままなのだが、それは名門の社交クラブの男性たちで、この世にきこえた名はーアントワーヌ・ド・カステーヌ、アダルベール・ド・モンモランシー、その他大勢はースワン夫人にとって親しい友人の名であった。ところで、詩的な感覚の回想は心の苦しみの回想よりもはるかに長い生命の平均持続ー相対的な寿命ーをもっているもので、ジルベルトのために陥っていた当時の悲しみが消えてずいぶん経ってからも、五月になって昼の十二時十五分よりお一時のあいだの時刻を日時計の面に読もうとするたびに、藤棚の花の反映の下でのように、彼女の日傘のかげて、こうしてスワン夫人と話している自分の姿を思い浮かべてわきおこる快楽が、私には悲しみよりも長く残るようになった。
p.358、マルセイ・プルースト(井上究一郎訳)、失われた時を求めて 第二篇 花咲く乙女たちのかげに I