私は思い浮かべるのだった、彼がはじめてバルベックにやってきたとき、白っぽいウール地の服を着て、海のようにみどりがかったよく動く目をして、ガラス戸が海に面している大食堂に隣接したロビーを横切っていった姿を。私は思い浮かべるのだった、そのとき私の目に映ったいかにも特別な人間、そういう相手と友達になることが私にとってあんなにも大きなねがいであったあの人間を。そのねがいは、私の予想しえた限度をはるかに越えて実現したのだったが、そのときは、しかしほとんどどんなたのしみももたらさなかった、そして、あのエレガントな外観がかくしていたすべてのすぐれた価値はもとより、その他さまざまの事柄に私が気がついたのは、あとになってからだった。よいものもわるいものもふくめて、そうしたすべてを彼はふんだんに、毎日のようにもたらしたのだった、そして彼が自分のもっているすべてのもののなかの最後のものをもたらしたのは、あたかもいつかの夜、私が席を動かなくていいように、自分から彼がレストランの長椅子の上をつたって私のところへとびこんできたときのように、彼が鷹揚な心と、他社への奉仕とから、ある塹壕に突撃していったときだった。それにしても、バルベックのあのロビー、リヴベルのカフェ、ドンシエールの騎兵隊の営舎と将校たちの晩餐の席、彼があるジャーナリストに平手打ちを食らわせた劇場、ゲルマント大公夫人邸、といったあのようなまちまちな地点で、あのように多くの間隔をおいたあのようにさまざまな状況のなかで、結局私はあのようにわずかしか彼に会わなかったけれども、かえってそのことが、彼の生前の生活からより鮮明な、より明確な画面を私の目に描かせ、彼の死から、より明瞭な悲しみを私に与えるのであった。相手を愛する度合いは強くても、われわれは、あまりしげしげ会っていると、その相手から抱く映像は、差異のほとんど感じられない無数の映像の漠然とした平均値でしかなくなるのであり、また愛情がいつも満たされていると、それよりももっと大きな愛情の可能性を夢みることはなくなるのであって、たとえば、双方の意志に反したかけちがいで不首尾な出会いをかさねているあいだに、結局かぎられたわずかな時間しか顔を合わせなかった人たちは、そんな外的状況にさまたげられたというだけで、相手への愛情はますます大きくなったであろう。
p.281、マルセイ・プルースト(井上究一郎訳)、失われた時を求めて 第10篇 見出された時

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