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しかもその夜は、おそらく、私の生涯で、もっとも甘美な、そしてもっとも悲しい夜であった。その夜私は、ああ!(神秘なゲルマント一族が、私にはとうてい近よれないもののように思われていた一時代であった)、両親から、権威の最初の放棄を獲得したのだった、その時点に、私の健康と意志の減退や、困難なつとめへの日増しに強まる私の断念を、さかのぼらせることができるのであった、ーそのような本が、きょうのこの日に、まさしくゲルマントの図書館のなかで、また私の生涯の目的を、おそらくは芸術の目的をさえも、突然照らし出したのであった。書物の特製造本にしても、それが生きた意義をもつならば、やはり私はそれに興味を感じることができたであろう。ある著作の初版が、他の版よりも私にたいせつになる、ということもあっただろう、しかしそれは、私がはじめてその著作をよんだ版が初版であったという意味においてであろう。私が初版本を求めるとすれば、私が意味する初版本は、その版によって私がその書物のオリジナルな印象をもった、そんな版になるだろう。なぜならそれ以後の版は、もはやオリジナルな印象をもった、そんな小説にたいして私が昔の装幀を蒐集するとしたら、私が読んだ最初の小説類の当時の装幀、パパがあんなにたびたび、「からだをまっすぐにして」と私に注意することおをきいていた装幀を蒐集するだろう。われわれがはじめて女に会ったときだその女が着ていたドレスのように、そのような装幀は、そのときに私が抱いた愛とそのときの私の目に映じた美とをふたたび見出すためのたすけになるだろう、そんな最初の美の映像をふたたび見出そうとして、私はその美の上にこれまで
あのように多くの映像を、それもそのたびに愛がうすれてゆく映像を、かさねてきたのだった。しかしそんな私はもう最初の美の映像を見たときの私ではないのである。同時の私の自我が親しく知ったそんな事物でいまの私の自我が知らない事物を、いまの自我が思いだすには、いまの自我は、どうしても当時の自我に場所をゆずらないとならないのだ。
あのように多くの映像を、それもそのたびに愛がうすれてゆく映像を、かさねてきたのだった。しかしそんな私はもう最初の美の映像を見たときの私ではないのである。同時の私の自我が親しく知ったそんな事物でいまの私の自我が知らない事物を、いまの自我が思いだすには、いまの自我は、どうしても当時の自我に場所をゆずらないとならないのだ。
p.350、マルセイ・プルースト(井上究一郎訳)、失われた時を求めて 第10篇 見出された時