そればかりか、ある時期にわれわれがみたある物、われわれが読んだある本は、われわれのまわりにあったものにだけいつまでもむすびついているわけではなく、当時のわれわれがあった状態にも忠実にむすびついている。それがふたたびわれわれの手にもどるのは、もはや当時のわれわれの感受性、または当時のわれわれ自身によってでしかありえない。私が図書館にはいって、他の思考をつづけていても、「フランソワ・ル・シャンピ」をふたたび手にとると、ただちに私のなかに一人の少年がたちあがり、私の位置にとってかわる。そんな少年だけが、ただひとり、「フランソワ・ル・シャンピ」という表題を読む権利をもっている、そしてそのときの庭の天気と同じ印象、土地や生活についてそのころ抱いていた夢とおなじ夢、あすへのおなじ苦悩とともに、そのときに読んだ通りに、彼はそれを読むのだ。私がもしちがったときのある事物をふたたび目に見るとしたら、そのとき立ち上がるのは、また一人の年少者であるだろう。きょうの私自身は、見すてられた一つの石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場よりに転がっているものは、みんな似たりよったこといであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切り出すのだ。私はいおう、ーわれわれがふたたび見る一つ一つをお事物が、無数の像を切り出す、と。たとえば、本は、その点に関しては、事物としてこんなはたらきをする、すなわち、その背の網目のひらきかたとか、その髪質のきめとかは、それぞれのなかに、りっぱに一つの回想を保存していたのであって、当時の私がヴェネツィアをどんなふうに想像していたか、そこに行きたいという欲望がどんなだったか、といったことのその回想は、本の文章そのものとおなじほど生き生きしている。いや、それ以上に生き生きしているとさえいえおう、なぜなら、文章のほうは、ときどき傷害を来すからで、たとえばある人の写真をまえにしてその人を思い出そうとするのは、その人のことを思うだけでがまんしているときよりも、かえってうまく行かないのである。
p.347、マルセイ・プルースト(井上究一郎訳)、失われた時を求めて 第10篇 見出された時