おそらく彼も、はじめは、彼の真価を理解しなかったり彼の感情を害したりした人々にたいして、自分の作品で、遠くから呼びかけていること、自分についてもっと高尚な観念を抱かせようとしていることを考えて、孤独のなかで楽しみを感じたことだろう。たぶんそのころは、他の人々に無関心になるためでなく、他の人々を愛するために、ひとりで生きてきたのだろう、たとえば私が、他日もっと好調な旗色のもとにジルベルトのまえに姿をあらわそうとして、いったん彼女をあきらめたように、エルスチールもまた、ある人々のところにいずれ帰ってゆくためにー彼自身がふたたび姿をあらわさなくても、人々から愛され、讃美され、語りぐさにされるためにーその作品をかいていた。あきらめはかならずしもはじめから一貫したものではない、たとえ病人、修道士、芸術家、英雄のあきらめであっても、はじめは、それまでの古い気持ちで、それを決心するのであって、あきらめがわれわれに反作用をおよぼすのはあとからである。しかし、ある人々を目あてに作品をつくろうと考えていたとしても、いざそれを制作する場合の彼は、社会を遠く離れ、それに無関心になり、ひたすら自分自身のために生きたのであって、孤独の実行が孤独愛をもたらしたのであった、そういうことはよくあることで、大きなことははじめから怖くて手が出ない、というのも、自分の愛着しているもっと小さなことにうまく折り合いがつかないのではなくてそれから開放されてゆくのである。大きなことを知るのに先立って、われわれのなすべきことは、 その大きなことと、その大きなことを知ってしまった場合にすぐに快楽ではなくなってしまうような快楽とのあいだに、どの程度折り合いをつけることができる
p.235、マルセイ・プルースト(井上究一郎訳)、失われた時を求めて 第3篇 花咲く乙女たちのかげに II