そうしたすべてが感受性に富んだ知識人のまえにじつに奥深い一つの世界をつくりだすので、彼の嫉妬は、その深さをはかってみたい欲望にとらえられるのであろうし、その深さは彼の理知の興味をそそらずにはいられない。まさにそのような人間であったというわけではないが、おそらく私は、アルベルチーヌが死んでしまったいま、彼女の生活の秘密を知ろうとしているのであろう。しかし、そのこと、すなわち、ある人の秘密をあばこうとする行為がその人の地上の生活のおわったあとでしか起こっていないということは、われわれが心の底では誰も来世を信じていなことを証明するものではないだろうか?もしそんなふうにしてあばかれる秘密が真実であるならば、われわれは女が生きていたあいだは彼女の秘密をかくす義務があると思っていた場合とおなじように、天国で彼女と再会するであろう日にも、その行動をあばかれた女のうらみをおそれなくてはならないであろう。またもしそんなふうにしてあばかれる秘密が虚偽でありつくりごとであるならば、女はもう生きていなくてそれを否定することができないのだから、われわれは、もし天国を信じるなら、死んだ女のいかりをなおさらおそれなくてはならないだろう。ところが、われわれは誰も天国を信じてはいないのだ。
p.360、マルセル・プルースト(井上究一郎訳)、失われた時を求めて 第9篇 逃げさる女